幼き日のヴォーリズ夫妻との思い出
私の父はメンソレータム(現・近江兄弟社メンターム)の業務で活躍した佐藤安太郎さんの甥にあたり、その縁もあって近江兄弟社に勤めていました。私は子どもでしたし、ヴォーリズ先生と直接話した記憶はあまり残っていないのですが、学園の講堂(現・教育会館)に行事で上がられるときに、靴の上に袋を被せておられた姿を覚えています。今でいうシューズカバーみたいなものだと思います。靴の脱ぎ履きが大変だったんでしょう。ヴォーリズ先生が設計した建物の玄関にベンチがあるのも、そういった気遣いからなんでしょう。
日本語はとても上手で、会話にダジャレをいれる余裕もありました。例えば、カワイさんに「いたずらするとカワイくなくなるよ」と冗談を言ったり。能登川周辺で川を越えるときに、お供のオガワさんに向かって「Not Ogawa(ノトガワ)」って言ってたと聞いています。
一方で、奥さんの満喜子先生は、厳しい方でした。子どもの頃に直接教わりましたが、近所で悪さをした次の日に教室で「神様の前で間違ったことをしていないと言えますか」と問いかけられ、私ひとりが立たされたこともありました。でも、親身になって生徒に接してくれる先生でした。私が先天性股関節脱臼になったとき、戦時中で医者が近くにいなかったのですが、両親と一緒に病院を探して連れていってくれました。私が無事に歩けているのは満喜子先生のおかげと、本当に感謝しています。
恩返しのつもりで学園を立て直し
私は、ヴォーリズ先生が近江八幡YMCA会館として設計した「アンドリュース記念館」で結婚式を挙げさせてもらいました。たぶん、ここで結婚式をしたのは私たちが初めて。
結婚式には、満喜子先生も出席してくださいました。


結婚後、しばらく埼玉の県立高校で教師をしていましたが、満喜子先生から「学園を助けてほしい」と頼まれて、地元に戻ることにしました。私が28歳のときのことです。当時の学園は生徒数が減って、校舎も荒れていました。花壇は土に埋もれ、校舎の掃除も行き届いてなかった。私が通っていた頃の面影がなくなってしまっていたことが悲しく、率先して校舎の整備を行いました。
50歳で事務長、63歳で理事長になりました。その間も学園再建のため、教職員一丸となって取り組んできました。私が事務長になってまず手掛けたのは、プレハブ校舎を普通の校舎に建て替えること。一方、クラブ活動に対しても県外から優秀な生徒をスカウトするのではなく、在校生を大事に育てる方針を貫きました。 その結果、学園経営は順調に軌道に乗って、1学年2クラスだった高校が、今では何倍にも増えました。
学園のはじまりが幼児教育(清友園幼稚園)だったことも心に残っていたので、積極的に保育園やこども園の増設も図り、能登川・安土・近江八幡・守山とエリアを広げ、6園にまで拡大しました。
こうやって学園を立て直したのも、満喜子先生に頼まれたから。ただただ、その一心でした。新しい校舎が建ったとき、夜に夫婦で眺めながら「この姿を先生に見せたかった」と話したこともありました。だからこそ私は学園の理念を大切にし続けました。
ヴォーリズ精神が宿る学園に
学園はミッションスクールですが、キリストの教えというよりも、隣人愛を実践したヴォーリズ先生の思想を教える学校です。
ヴォーリズ夫妻は、不良や仲間が近所で騒いでいると、家に上げて話を聞いてあげたりもしました。結核患者のために開いた近江療養院(現・ヴォーリズ記念病院)でも、患者たちと親しく交流されていました。周りが避けるような人たちとも、親身になって関わっておられた姿を、地元の人たちもよく知っていました。そのせいもあってか、学園には、お寺や神社の家の子どもたちも多く通っていました。
2014年に法人名を「近江兄弟社学園」から「ヴォーリズ学園」に変えたのが私の最後の大仕事となりました。そこには、近江八幡で生涯を終えたヴォーリズ先生の不屈の精神や、汝(なんじ)の敵を愛する精神、利潤を社会事業に投じて私財を残さなかった思想、その3つのヴォーリズ精神をしっかり受け継いでいきたいという思いがあります。ヴォーリズ先生没後50年の記念すべき年に、それが成し遂げられたことはとても感慨深いです。