ヴォーリズの語り部

Vol.10 社会福祉法人 止揚学園 前園長・公益財団法人 近江兄弟社 元理事 面条 義清さん

「ジョー」と呼んでもらってね。いろんな話を聞かせていただきました

1937(昭和12)年8月17日生、東近江市在住

「ジョー」と呼ばれ、自宅に招いてもらった高校時代

私が一柳米来留先生に初めてお目にかかったのは、近江兄弟社高校の入学式でした。高校時代は、しょっちゅうメレル先生のご自宅に遊びに行かせてもらっていましたね。土曜日の昼からとか、日曜日の昼からとか、時間を見つけては訪ねていました。今思えば、ずいぶん厚かましい生徒だったと思います。それでも先生は、「来たか」と言って、いつも居間や和室に招き入れてくださって、いろいろなお話をしてくださいました。
私の名前が面条と申しますので、先生からは「ジョー」と呼んでもらってね。可愛がってもらいました。

 

 

満喜子先生は、学園では本当に厳しい先生で、私はやんちゃな生徒だったので、よく叱られました。学園祭で全身を緑に塗って河童踊りをしたときには、「なんて恥ずかしいことをするんですか」と、ずいぶん叱られましたね。
でも、ご自宅での満喜子先生は、まったく違うんです。お茶を出してくださって、お菓子も出してくださって、本当に優しい。同じ人物かなと思うぐらいでした。

卒業式の日には、メレル先生ご夫妻が卒業生21人全員を自宅に招いて、夕食会を開いてくださいました。そのときに、メレル先生直筆の「協」という文字が書かれた色紙をいただいたんです。

 

 

「協は、十字架のもとに力を合わせるから、協力になるんです」そうおっしゃっていました。今もその色紙は、私の大切な宝物として残しています。

高校時代、あの距離でメレル先生ご夫妻と接することができたことは、今振り返ってみても、私にとって本当に大きなことだったと思いますね。

 

 

やさしさの奥にあった、揺るがない厳しさ

メレル先生が話される言葉の八割は英語で、日本語は二割ほどでした。その日本語も、決してお上手とは言えない日本語でしたね。満喜子先生がそばについて、いつも通訳してくださいました。

でも私は、先生の日本語がたどたどしかったからこそ、満喜子先生との出会いがあったのだと思っています。お二人の出会いは満喜子先生のお兄様・広岡恵三氏の邸宅をヴォーリズ設計事務所が請け負ったときに、細かい日本語が通じなくて、アメリカ帰りの満喜子先生が通訳を務められたことです。それが神様の摂理だったんでしょうね。

優しかったメレル先生ですが、先生の厳しさを強く感じた出来事がふたつありました。
ある日、列車でご一緒したとき、財布を持っておられなかったようで、駅からご自宅まで歩いて帰ろうとされたんです。「先生、バス代くらい私が持ってますよ」と言った私に、先生はきっぱりと「いけません。たとえ十円でもお金は借りてはいけない。借金はだめです」その言い方が本当に厳しかった。結局、私も一緒に歩かせてもらいました。

もうひとつは、先生のご自宅で長居をしてしまったときのことです。夕方になって、先生が夕食に出前をとってくださいました。配達に来てくれたお店の方にお手伝いの方が「お代は月末にね」と言ったのを聞いて「どうして今お金を渡さないんですか? たとえどんぶり一杯でもお金を借りてはいけない」と強くおっしゃいました。

あんなに厳しい先生のお姿を見たのは、後にも先にもその時だけでした。

 

「神様の御心です」と、その一言だけ

メレル先生に、国籍のことを一度だけお尋ねしたことがあります。

先生が国籍を変えられたのは、1941年、日本が戦争へと突き進み、アメリカとも激しく対立していた時代です。
「どうしてアメリカの国籍を捨てて、日本国籍を取られたんですか」
そうお聞きすると、先生はただ一言、「神様の御心です」とおっしゃったきり、それ以上、国籍について語られることはありませんでした。

でも私は、その一言の裏に、先生の大きな苦悩があったのではないかと思っています。誰でも、生まれ育った国を捨てるというのは、辛いことです。とくに、あの時代です。日本に留まることが、どれほどの覚悟を伴う決断だったか。先生は、それを多くは語られませんでした。

先生は、「神様から与えられた使命を全うするために、日本に留まる道を選んだ」と、その一言だけで示されたのだと思います。その想いが「一柳米来留」という名前にも込められていたのでしょう。周りから「ヴォーリズさん」ではなく「メレルさん」と呼ばれることに強くこだわられたのも、そのためだと思います。

「私は自分の意志で動いているのではありません。神様から託された使命を語り、行い、全うするんです」そうおっしゃっていた言葉が、強く印象に残っています。

私は25歳のときから、重度の知的障害児を受け入れる「止揚学園」に携わりました。そこから52年間、子どもたちと向き合ってきました。決して楽なものではありませんでしたが、それでも続けてこられたのは、メレル先生から教わった「神様から与えられた使命に生きる強さ」が、私の中にあったからだと思っています。

メレル先生に、私が止揚学園に携わっていることを直接お話しする機会はありませんでした。でも、先生が身をもって示してくださった「使命を全うする」という生き方が、私の52年間を支えてくれたのです。

 

また、お会いできる日を楽しみに

メレル先生に最後にお目にかかったのは、先生が軽井沢で倒れられる、その夏のことでした。
出発される直前にご自宅をお訪ねして、「先生、しばらくお会いできなくなりますね」と申し上げたんです。すると先生は、「いや、ジョー。また秋になったら帰ってくるから、訪ねてきなさい」と、いつものやさしい声でおっしゃってくださいました。あれが、私が聞いた先生の元気なお声の最後でした。

先生からは、アメリカの故郷の話もよく聞かせていただきました。そして、「いつか、ぜひ訪ねなさい」と言われ、「行きます」と約束していたんです。その約束を、40年越しではありましたが、果たすこともできました。

いま私が楽しみにしていることは、この先、イエス様からのお招きがあったときに、またメレル先生にお会いできることです。「よく来たね」と声をかけてもらって、またいろいろなお話を聞かせていただく。それを心の支えに、これからの神様に与えられた残りの日々を全うしたいと思っています。一柳米来留先生ありがとうございました。


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