ヴォーリズの歩みとその業績を年代を追ってご紹介いたします。
1907年 | 27歳 | 八幡キリスト教青年会館(八幡YMCA:ヴォーリズ最初の設計)落成。 キリスト教伝道の理由で教師解職となる。 近江八幡で、伝道活動を続ける決心をする。 『The Omi Mustard Seed』を創刊。 |
マスタードシード 完成したばかりの 旧八幡YMCA会館 |
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1908年 | 28歳 | 京都三条YMCAの一室で、建築設計監督事務所開業(現・株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所)。 建築に、伝道活動を続けるための経済基盤を見い出す。 |
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1910年 | 30歳 |
建築家のレスター・チェービン、吉田悦蔵と「ヴォーリズ合名会社」を設立 京都に開設した事務所が発展し、近江八幡に移転する。 |
設計指導するヴォーリズ |
1911年 | 31歳 | 近江ミッションを結成。本格的な伝道活動を開始 理想郷の建設に向け、商売で得た資金を社会奉仕に投入することを理念に、伝道団体「近江ミッション」を設立。本格的な伝道活動を開始する。 |
ガリラヤ丸による湖国伝道 |
1912年 | 32歳 | 「湖畔の声」を創刊 | 湖畔の声 |
1913年 | 33歳 | 米国で、YMCAの熱心な支援者であるメンソレータム社の創業者A・Aハイドと出会う。 後に伝道への援助としてメンソレータム(現・近江兄弟社)の日本での販売権を得ることになる。 |
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1914年 | 34歳 | A・Aハイドの支援で琵琶湖を縦横に駆け回る伝導船「ガリラヤ丸」が推水。 | |
1918年 | 38歳 | 3月 「近江基督教慈善教化財団」(現・公益財団法人近江兄弟社)設立。理事長就任。 5月 結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム/現・ヴォーリズ記念病院)を開院。 |
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1919年 | 39歳 | 子爵(旧小野播主)・一柳末徳(ひとつやなぎすえのり)の三女、満喜子と結婚。 以後満喜子は保育、教育分野の発展に力を尽くす(後に近江兄弟社学園へと発展) |
明治大学院大学チャペルでの 結婚式 |
1920年 | 40歳 | ヴォーリズ合名会社を解散し、近江セールズ株式会社(現・株式会社近江兄弟社)を設立。 メンソレータム(現・近江兄弟社メンターム)販売開始。 満喜子夫人によりプレイグラウンドが始められる。 |
清友園幼稚園 |
1922年 | 42歳 | 『A Mustard-Seed in Japan』を出版。 私立清友園幼稚園(現・学校法人ヴォーリズ学園)を設立。 |
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1923年 | 43歳 | 『吾家の設計』を出版。 | |
1924年 | 44歳 | 『吾家の設備』を出版。 | |
1927年 | 47歳 | 軽井沢会の副会長に選出される。 | |
1930年 | 50歳 | 母校コロラド大学よりLLD(名誉法学博士号)を受ける。また、同志社大学社友に推薦される。 | |
1931年 | 51歳 | 外皮用薬八幡工場完成(現・株式会社近江兄弟社工場) | メンソレータム生産風景 |
1934年 | 54歳 | 近江ミッションを近江兄弟社と改称。 | |
1937年 | 57歳 | 「ヴォーリズ建築事務所作品集」出版。 ヘレンケラー女史 近江兄弟社を訪問。 |
「奇跡の人」ヘレン・ケラー女史近江兄弟社訪問 |