ヴォーリズと歩んだ人々

Vol.01 一柳 満喜子(1884~1969)

ヴォーリズの良きパートナーとして教育事業に生涯を捧げた人

ヴォーリズとの出会いと結婚

1918年(大正7年)ヴォーリズは、大阪の豪商・加島屋(加島銀行を設立。今日の大同生命の設立母体)の廣岡家の増改築を依頼された。ちょうどその頃、父の病気を理由に呼び戻されてアメリカから帰国していた“一柳満喜子”と出会うことになる。

廣岡家は、満喜子の兄、一柳恵三の養子(婿入)先であり、9年の長きに渡ってアメリカに留学していた満喜子は、通訳を兼ねて、増改築についての協議に加わることになった。彼女は施主である兄の一家の意向と、建築家ヴォーリズの意見をよく理解して、アドバイスをしたのであった。ヴォーリズは、次第にこの聡明な女性“一柳満喜子”に魅かれ、やがて満喜子と結婚したいと思うようになった。ヴォーリズは、その想いを手紙と詩に綴り彼女に渡した。

満喜子はヴォーリズの想いを受け入れたが、その時、満喜子は恩師であるアリス・M・ベイコン(アメリカ人女性教育家。大山捨松、津田梅子の招聘により1884年華族女学校の英語教師として来日。1900年には東京女子師範学校及び女子英学塾の英語教師として再来日。日本の女子教育に大きな影響を与え1902年に帰国)の病気看病のために、数ヶ月間日本を離れることが決まっていた。

帰国後、子爵の家に生まれた満喜子(旧小野藩主、一柳末徳の三女)が外国人であるヴォーリズと結婚することが大きな問題となった。しかし、華族の家系に属する満喜子が平民戸主となることによって宮内省の許可が下り、東京の明治学院大学チャペルで結婚式を行うことで、この問題は解決することとなった。
1919年(大正8年)6月3日のことであった。

近江八幡でも、教会でヴォーリズと満喜子の結婚の披露の音楽会が催され、満喜子はヴォーリズの伴侶としての活動を始めた。
独身時代の一柳満喜子
独身時代の一柳満喜子

教育事業への貢献

満喜子夫人は、結婚の翌1920年(大正10年)には、親が忙しく、日中面倒を見ることが出来ない地域の子どもたちのために健全な遊び場を作ることを考え、「近江ミッション(1934年(昭和9年)に近江兄弟社と改称)」の空き地に「プレイグラウンド」を当初は自前で、地域社会への奉仕を始めた。これが「清友園」の始まりある。

満喜子夫人は当時を振り返り、始めたきっかけを以下のように語っている。
「軒下にポリポリお八つを食べながら何するともなくたたずんでいる子どもたちに建設的な遊び場を造る必要を感じたのが、そもそもの始めでした。」<一柳満喜子『教育随想』1959年(昭和34年)>

1922年(大正11年)8月23日、滋賀県より幼稚園設置の許認可が下り、池田町に旧家屋を改修した園舎において「清友園幼稚園(現・近江兄弟社学園)」として正式に教育事業が始まった。
当初、満喜子夫人個人の事業であったが、約10年後の1931年(昭和6年)には、現在の近江兄弟社学園の地にメンソレータムの創始者、ハイド夫妻の寄付を受けて園舎を建設。ヴォーリズと満喜子夫人とのチームプレイが開始された。
幼稚園の発展と共に、1930年代には近江兄弟社の教務部の事業として位置づけられ、1935年(昭和10年)に堅田、今津の各保育所が幼稚園となり、米原の幼稚園と共に教務部のもとに統括されるようになった。

清友園幼稚園の満喜子夫人の教育についてヴォーリズは、「私たちを満足させるものであります<1925年(大正14年)>」と評価している。それは、彼女の教育が「日本で実施されている一般的な教育方法を根本的に変えようとする試みである」という理由からである。
ヴォーリズによれば、「日本で実施されている方法は、人的資源(人材)を一挙に同一に発達させようとするドイツの教育システムを模倣したもの」であるが、満喜子夫人の教育方法は「もっと直接的な教育方法による全面的な努力で個性と才能を生み出す試み」なのであるということだった。ヴォーリズも満喜子夫人の教育事業を評価し、支援していったのである。

以後、満喜子夫人は、幼児教育を通して「近江ミッション」の教育事業の責任を担い、戦後1951年(昭和26年)には、幼稚園から高等学校までを統合した総合学園「学校法人近江兄弟社学園」の学園長(ヴォーリズは理事長)に就任し、近江兄弟社の教育事業全般の責任者として「学園教育」にその生涯を捧げた。
プレイグラウンド(1920年(大正9年))
プレイグラウンド
<1920年(大正9年)>
ヴォーリズ夫妻の団らん(1940年(昭和15年)頃)
ヴォーリズ夫妻の団らん
<1940年(昭和15年)頃>


一柳満喜子 略歴


1884年 父・一柳末徳(旧小野藩主・子爵)、母・栄子(クリスチャン)の三女として東京で出生。
1908年 1908年 神戸女学院音楽部ピアノ専攻卒業。日本女子大学校で助手となる。
1909年 1909年 アメリカ外遊に出る。ペンシルバニア洲ブリンマーにある進学準備学校に入学。
その後ブリンマー大学の奨学生となる。
1910年 ブリンマー長老教会にて受洗。
1917年 帰国。
1918年 実兄の一柳恵三の養子(婿入)先の廣岡家にてヴォーリズと出会う。
1919年 明治学院大学チャペルにて、W.M.ヴォーリズと結婚。満喜子35歳。
結婚後初めて来幡。
1920年 蒲生郡八幡町(現・近江八幡市)にて「プレイグラウンド」を開き、 児童会会長に就任。
1922年 私立清友園幼稚園(現・近江兄弟社学園)を設立(滋賀県知事認可)
1942年 戦時中は夫・米来留と共に軽井沢で過ごし、私立軽井沢幼稚園開設。園長に就任。
1946年 財団法人近江兄弟社の理事、近江兄弟社女学校の校長、近江兄弟社学園の園長に就任。
1951年 学校法人近江兄弟社学園を設立し、学園長に就任。校歌「Our School Song」を制定。(作詞:W.M.ヴォーリズ、訳詞:満喜子)
1959年 教育功労者として文部大臣より表彰される。
1963年 近江兄弟社学園理事長代理に就任。教育功労者として国から藍綬褒章を受ける。
1964年 蜘蛛膜下出血により療養中だった、近江兄弟社学園理事長の夫・一柳米来留(W.M.ヴォーリズ)帰天。
1965年 近江兄弟社の取締役会長に就任、学校法人近江兄弟社学園長となる。
地域社会の文化向上に寄与した事により勲四等瑞褒章を受章。
1966年 近江兄弟社幼稚園園長に就任、財団法人近江兄弟社理事長に就任。
1969年 一柳満喜子帰天。(享年85歳)

参考文献・出典

  • 『日本人を越えたニホン人 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』(編集 株式会社山田プランニング びわ湖放送株式会社)
  • 『W・メレル・ヴォーリズ 近江に「神の国」を』(奥村直彦 日本キリスト教団出版局)
  • 『失敗者の自叙伝』(一柳米来留 湖声社)
  • 『近江の兄弟』(吉田悦蔵 近江兄弟社)
  • 『Vories Academy ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』(NPO法人 ヴォーリズ精神継承委員会)




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