ヴォーリズに感化され、あらゆる面でヴォーリズを支えた |
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ヴォーリズの滋賀県県立八幡商業学校英語教師時代の生徒の一人。 ヴォーリズによって感化され出会ったその年の1905年(明治38年)9月に洗礼を受けクリスチャンとなった。彼の卒業と同時にヴォーリズは滋賀県県立八幡商業学校を解雇されたが、恩師ヴォーリズが近江八幡に留まって「神の国」建設に尽くそうとする信仰心と熱意に打たれ、彼は上級学校への進学を断念し、母親からもう1年仕送りを受けてその学費をヴォーリズと自分との生活に充て、ヴォーリズと共に活動をはじめた。 1910年(明治43年)、一旦帰米したヴォーリズとアメリカ人建築家レスター・チェーピンと共に3人で「ヴォーリズ合名会社」を設立。さらに翌年には「近江基督教伝道団(近江ミッション)」が結成される。吉田はその中核とし働きに加わり、近江ミッションを発展させてゆくことになる。 また、1913年(大正2年)には外遊先のアメリカで、YMCAや海外伝道学生奉仕団の熱心な支援者であり「メンソレータム」(現・近江兄弟社メンターム)の発明者A・A・ハイドと不思議な導きにより面会し、病気療養のため帰国していたヴォーリズとハイドの出会いのきっかけを作っている。 吉田は、その後の「近江兄弟社」設立に大きく貢献し、あらゆる面でヴォーリズの片腕となった。 |
祈りの部屋でのヴォーリズと吉田悦蔵、YMCA会館内(1910年/明治43年『ヴォーリズ建築事務所作品集』より ) |
近江兄弟社の創立者として終生、結束の固かった3人 |
母、吉田柳子 |
近江ミッションの幹部と団員の家族<1912年頃(明治45年)> 前列吉田柳子、後列左より村田幸一郎、チェーピン、清水安三、一人おいて吉田悦蔵、武田猪平、右端ヴォーリズ[提供:公益財団法人 近江兄弟社] |
ヴォーリズが、近江ミッションの活動を開始したころは独身男性ばかりで、女手がなく、不自由な生活をしていた。そこで兵庫から女中を従えてやって来たのが吉田悦蔵の母、柳子である。1911年(明治44年)当時45才、既に夫を亡くしていた彼女は熱心な仏教徒であったゆえ、近江ミッションに仏壇を持ち込んだという。 しかし、一年も経たないうちにクリスチャンとなり、その後、東京の聖書学校で聖書と英語を学び、ミッション活動に専念した。 ヴォーリズは彼女のことを「マザーヨシダ」と敬い、非常に大切にした。しかし残念ながら1917年(大正6年)、50才の若さで生涯を閉じた。 |
近江勤労女学校の設立 |
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教育事業では、満喜子夫人の幼稚園の充実と共に、中学校の設立の機運が熟すと、吉田悦蔵がもっぱらの主唱役となり、当時メンソレータム工場で働いている婦人たちの教養、厚生のための「幸運増進委員会(Walfare Committee)」を造ることを提唱し、次に5年生の女学校「近江勤労女学校」を設立し、校長に就任している。 また、これと平行して吉田悦蔵の妻、清野も1935年(昭和8年)、自宅で「近江家政塾」を発足させ、1936年(昭和11年)には自宅の隣にて婦人教育に力を注いだ。 吉田悦蔵は、当時を振り返り 「私は二人の娘を連れて、私たちの経営して居る、メンソレータム製薬工場に行ってみました、残業視察のために。すると、数十人の婦人包装員の中に、私の子供等と同級ないし、少女があって、セッセとガラス壜を清掃して居る姿を見て、私はハタと自らを打ちのめしたのであります。『見よ、自分の娘よりは、或いは更に多く、好学の精神に燃えて居るのであろうあの少女たちをあのままにしておいてよいのか』、そして、終夜眠らずに考えついたのが、今度の勤労女学校そのもであります。」(吉田悦蔵『近江勤労女学校を語る』1993年) と語っている。 |
吉田清野が設立した近江家政塾の生徒たち[提供:吉田ゑい] |
吉田悦蔵 略歴
1890年 | 兵庫県永沢町にて出生。 |
1905年 | 吉田悦蔵 受洗。 |
1910年 | ヴォーリズ、吉田悦蔵、チェーピンで建築設計監理の「ヴォーリズ合名会社」設立。 |
1911年 | 「近江基督教伝道団(近江ミッション)」設立。 |
1912年 | ヴォーリズ、村田幸一郎、武田猪平と共に「湖畔の声」を創刊。 聖書学校(レキシントン・アベニューの聖書教師養成学校)留学のため渡米。 |
1915年 | ヴォーリズと共に通信伝道開始。「ガリラヤ丸」による湖畔伝道開始。 |
1917年 | 1917年 初期の近江ミッションを援助した母 吉田柳子 召天。 |
1923年 | 1923年 吉田悦蔵を中心として「勤労女学校」「向上学園」開校。 |
1942年 | 吉田悦蔵召天(享年53歳) |