ヴォーリズと歩んだ人々

Vol.05 ハーバート・コーネリアス・アンドリュース

ヴォーリズの励ましにより信仰をもつ

近江八幡でヴォーリズが最初に活動の拠点として建てたYMCA会館は「ハーバート・アンドリュース記念館」と呼ばれている。現在の建物は近江ミッションが30周年を迎えた1930年に建て替えられた二世代目である。

ハーバート・アンドリュースはヴォーリズの大学時代の友人であり、その名前は「失敗者の自叙伝」に友人”H.A”という名で懐疑論者として登場する。(注1)その父は米国シカゴの最初の住人の一人で米国有数の学校用品製造会社を営む実業家であった。論争好きの無神論者であったハーバートはクラスメートに嫌われ孤独であった。メレルは何とか彼を信仰に導こうとしたようである。幸い「音楽」が二人の友情を育んだが、病弱のハーバードは病に臥すようになる。ヴォーリズの心を込めた励ましにハーバートはようやく信仰を持つようになった。しかし彼は卒業を前にしてやむなく大学を中途退学し、転地療養をしていた。

1905年、SVMで決心し、示された地の日本に旅立つ道すがら、ヴォーリズはカリフォルニアのパサデナで療養中のハーバードを見舞った。しかし、ハーバードの病状は悪化して危険な状態であった(注2)。
日本に渡ったヴォーリズは最初の夏休み(1905年)に軽井沢を訪ねた。そこで彼はハーバードの母からハーバートの召天を告げる手紙を受け取った。八幡商業学校にバイブルクラスで集まる生徒を中心に学校YMCAを組織したヴォーリズは将来キリスト教青年会館(YMCA会館)を建てる夢を常に語っていた。しかしそれは資金面でもけっして容易なことではなかった。明治39年(1906年)6月、健康を害して一時帰国して療養したヴォーリズは日本に戻る前にハーバートの父のもとを訪ねてハーバートの早世に弔意を伝えた時に八幡での青年会館の夢を語った。

日本に戻ったヴォーリズのもとにハーバートの父から「息子ハーバートとヴォーリズとの友情を記念して500ドルの為替が届けられた。その他の友人たちからの1000ドルの献金(注3)と自分の貯金をあわせ、八幡の教会員であった千貫久次郎の兄の西幸治次郎から提供された土地(注4)に工費3600円で40坪余りの二階建ての会館が建てられることになった。工事は明治39年11月に起工、翌年2月10日に落成した。八幡では初めて多くの外国人の訪問者を迎えて華々しい献堂式が挙行された(注5)。
こうして、八幡で最初のヴォーリズの活動拠点はハーバート・アンドリュース記念館と名付けられたのである(注6)。


注釈

  • (注1)『失敗者の自叙伝』P.46-48
  • (注2)同上 P.84
  • (注3)同上 P.223
  • (注4)同上 P.144
  • (注5)同上 P.226
  • (注6)同上 P.234

参考文献・出典

  • 『日本人を越えたニホン人 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』(編集 株式会社山田プランニング びわ湖放送株式会社)
  • 『W・メレル・ヴォーリズ 近江に「神の国」を』(奥村直彦 日本キリスト教団出版局)
  • 『失敗者の自叙伝』(一柳米来留 湖声社)
  • 『近江の兄弟』(吉田悦蔵 近江兄弟社)
  • 『Vories Academy ウィリアム・メレル・ヴォーリズ』(NPO法人 ヴォーリズ精神継承委員会)




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