近江サナトリウムの建設に多額の寄付金 |
ミス・ツッカー(Miss. Mary Tooker)(注1)は米国ニュージャージー州の菓子商を営む裕福な家庭の婦人であったが、明治45年(1912)に京都YMCAのフェルプスの紹介で初めて八幡にヴォーリズを訪ねてきた。そしてヴォーリズの始めたばかりの事業に深く共鳴したという。(注2)そしてこれに共鳴した彼女は2000円を寄付した。近江ミッションはこの資金でまず池田町に土地約1000坪を確保した。 大正2年(1913)外遊中のヴォーリズは慢性盲腸炎で手術をしなければならなくなった。しかし旅先のことであり、その費用の捻出は困難を極めた。手術の当日ツッカー嬢が見舞いに駆け付けて来て手術費用と入院費用の全額を彼女が負担する旨を吉田悦蔵に耳打ちし、大きな花束を残していった。(注3) 彼女は白人社会のアメリカ人としては色の黒いほうで、出会った当時30歳をこえたばかりの方で、黒い喪服をまとうた理知的な婦人という印象を吉田悦蔵が書き残している。(注4) ヴォーリズとの親交は深く、近江の結核事業のために5000ドルという巨額の寄付をしているが、(注5)これはヴォーリズがマスタードシードに比叡山の修行僧であったが、ヴォーリーズらと出会い仲間に加わっていた遠藤観隆が結核で命を落としたことについて書き、日本に結核が蔓延することを防ぐために「療養所を」と訴えたことに応えたもので、その後次々に献金が集まり、5万円たらずの献金が集まって近江サナトリウムが誕生した。ヴォーリズはこれ以外にもツッカー女史とは文通しており、彼女の母が肺結核で亡くなったことから、彼女の胸の内には母の記憶がよみがえって亡き母の記念となるならぜひ計画を実現させたいという思いがあったのだろう。そこで新しい結核療養院の本館にはミス・ツッカーの愛する母アンナ・デンフォース・ツッカー(Anna DenforesTooker)記念館と名付けられた。(注6) |
注釈
- (注1)後に結婚され Mrs.Herman
- (注2)『吉田悦蔵伝 P.108』にヴォーリズが吉田悦蔵に語った
「社会を清くし、人を純潔にし、健康にするための三つの事業構想」がある。
- (1)人間の魂を救う宗教の伝道
- (2)農業を盛んにし食料の増産を計る
- (3)病院を建てて、病気の蔓延を防ぐ
- (注3)『近江の兄弟』P.109 入院手術の場所はニューヨークでの出来事で
『失敗者の自叙伝』P.253にその時の詳細が記述されている。
また『吉田悦三伝』P.123-126及びP.130にも書かれている。 - (注4)『近江の兄弟』P.99
- (注5)『湖畔の声』104号 P.7-9 武田猪平牧師「ヴィジョンの実現」
- (注6)近江兄弟社60年史草稿第4分冊P.34-35